[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」


■■■アヴラム・デイヴィッドスン小伝■■■

back to home


 アヴラム(・ジェイムズ)・デイヴィッドスンは1923年4月23日、ニューヨーク州ヨンカースに生まれた。

 アヴラム(Avram)という名前は、「創世記」に登場するイスラエルの族長アブラハム(Abraham)の旧名アブラム(Abram)のイディッシュ流表記である。つまり、デイヴィッドスンは正統派ユダヤ教徒の家庭に生まれ、自身も敬虔なユダヤ教徒として育った。

 地元の高校を卒業し、ニューヨーク大学で人類学を学んだのち、1942年にアメリカ海軍に入隊し、衛生兵として第二次世界大戦に従軍。南太平洋を転戦し、日本の無条件降伏直後の1945年9月には中国に駐留した。兵役中もユダヤ教の戒律を遵守し、部隊でただひとりひげをたくわえ、コシャー(ユダヤ教の戒律に従って調理された食べ物)以外は口にしなかったという。

 除隊後、デイヴィッドスンは学業に戻る一方、ヨーロッパや中近東を旅行してすごした。1948年にはパレスチナに赴き、農業技術者としてイスラエル建国に参加している。執筆活動を始めたのもこのころで、A・A・デイヴィッドスン名義でユダヤ系雑誌にエッセイや短編小説を寄稿している。

 1954年、「恋人の名前はジェロ」で〈ザ・マガジン・オブ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション〉(以下F&SF)誌に商業誌デビュー。以後1960年代前半ごろまで、精力的に短編を執筆した。〈F&SF〉〈ギャラクシー〉〈ファンタスティック・ユニヴァース〉〈ワールズ・オブ・イフ〉〈ヴェンチャー〉などのSF雑誌、〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉(以下EQMM)〈アルフレッド・ヒッチコックズ・ミステリ・マガジン〉〈マンハント〉などのミステリ雑誌はもちろん、〈プレイボーイ〉にも寄稿しているし、聞いたことのない三流雑誌にも書いている。1958年には計18編もの短編を発表しているほどだ。

 とはいえ、粗製濫造していたわけではなく、評価もきわめて高かった。輝かしい受賞歴を見れば、一目瞭然だ。

●「物は証言できない」――1956年度EQMM短編小説コンテスト第一席受賞
●「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」――1959年度ヒューゴー賞最優秀短編部門受賞
●「ラホール駐屯地での出来事」――1961年度MWA賞最優秀短編部門受賞

 1962年はデイヴィッドスンにとって転機の年となった。

 まずは〈F&SF〉誌編集長に就任したこと。以後1964年までの編集者時代の功績のうち、日本人にとって特筆すべきは、星新一「ボッコちゃん」の英訳を掲載したことだろう(斉藤伯好訳、1963年6月号)。これは史上初めてアメリカに紹介された日本SF作品だった。デイヴィッドスンは非英語圏SFに理解があったらしく、ヘルベルト・W・フランケ(ドイツ)やワレンチナ・N・ジュラブリョーワ(ロシア)の短編も選んでいる。

 処女出版もこの年に果たされた。それも犯罪実話集Crimes & Chaos、短編集Or All the Seas with Oysters、ウォード・ムーアとの共作長編Joylegと、たてつづけに3冊だ。

 私生活でも大きな出来事があった。前年の61年に20歳年下のグラニア・ケイマン(のちのSF作家グラニア・デイヴィス)と結婚し、長男イーサンが誕生したのだ。

 このころ、デイヴィッドスンはエラリー・クイーン作品の代作も手がけている。「エラリー・クイーン」とは、いとこどうしのフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの共作ペンネームであり、代作はダネイが書いたプロットを代作者が小説化し、リーが加筆訂正して決定稿にするという工程でおこなわれたらしい。つまり、ゴーストライターというよりもノヴェライゼーションに近い作業だったと考えられる。通説では『第八の日』『三角形の第四辺』『真鍮の家』(いずれもハヤカワ・ミステリ文庫)がデイヴィッドスン執筆作とされているが、ヘンリー・ウェッセルズによれば、『真鍮の家』の代作者はシオドア・スタージョンだったという(スタージョンは『盤面の敵』も代作している)。

 さて、とりあえず定職に就き、自著の出版も果たし、家庭も築いて、順風満帆に見えたデイヴィッドスンだが、1962年末、生まれ育ったニューヨークからペンシルヴェニア州ミルフォードに転居したことが不幸の始まりだった。

 ミルフォードという街に罪はない。当時ここにはデーモン・ナイト、ケイト・ウィルヘルム、ジェイムズ・ブリッシュらSF作家が数多く住んでおり、作家デイヴィッドスンにとって快適な環境だったからこそ、転居を決断したわけだ。

 問題は、デイヴィッドスンが借りた家にあった。些細なことから大家とトラブルになり、最終的には訴訟沙汰になってしまったのだ。この結果、デイヴィッドスン一家は借家を追いだされ、路頭に迷うはめになる。

 以後、デイヴィッドスンの人生はふたつのキーワードに支配されてしまう。「貧乏」と「放浪」である。

 1963年半ば、デイヴィッドスン一家は物価の安いメキシコに転居する。もちろん〈F&SF〉誌編集長に就いたままだ。ファクシミリも宅配便もない時代、しかも町に電話が1本しかないメキシコの田舎でアメリカの雑誌の仕事をするとは、むちゃくちゃもいいところだが、〈F&SF〉誌発行人エドワード・ファーマンによれば、掲載短編選択の〆切に遅れたことはないらしい。ただし、「紛失した原稿はイグアナに食われたんだ」と言いわけしたことはあるとか。

 編集長職のかたわら、デイヴィッドスンは生活費を稼ぐため、ペーパーバックの娯楽SF長編を量産した。いずれも金のために書きとばした小説ばかりだが、独特のオフビートな味わいにみちており、個人的には好きな作品群である。

 貧乏生活がつづいた結果、愛妻グラニアとの関係も悪化し、1964年に離婚。その後、グラニアはデイヴィス氏と再婚し、現在のグラニア・デイヴィスという名前になる。ただし、離婚後もふたりの友情は晩年までつづいたらしく、Marco Polo and the Sleeping Beauty(1987)などの共作もおこなっている。デイヴィッドスンは最高の友人だが夫には不向きということか。

 デイヴィッドスンは、次第に日銭稼ぎの小説仕事にうんざりしはじめていた。1964年、ようやく合衆国に戻り、サンフランシスコに暮らしはじめると、とうとう「自分がほんとうに書きたい小説を書こう」と決意し、長年構想を温めていた長編小説に本格的に着手する。架空の古代ローマ世界を舞台に、魔術師ウェルギリウスの活躍を描いた独創的な幻想小説The Phoenix and the Mirrorである。

 デイヴィッドスンがThe Phoenix and the Mirrorに費やした情熱と労力は並々ならぬものだった。執筆活動は極端に減った。1966年以降、著書の出版はないし、短編の発表も激減した。生活費が安く、落ちついて執筆できる場所を求めて、中米の英領ホンジュラス(現ベリーズ)に1年以上滞在もした。

 こうした苦労を経て、1969年に発表されたThe Phoenix and the Mirrorは、まさにデイヴィッドスン畢生の傑作となった。

 ところが――

 これがまったく売れなかったのだ。

 グレゴリー・フィーリーによれば、ハードカバー版の版元ダブルデイ社が売れ残りを断裁処分にしようとしたため、あわててデイヴィッドスンが買いとったという。

 1969年、デイヴィッドスンはもうひとつの傑作ファンタジーThe Island Under the Earthを、テリー・カー編集の野心的ペーパーバックシリーズ〈エース・サイエンス・フィクション・スペシャル〉から出版している。同じくグレゴリー・フィーリーによれば、こちらは「エース・スペシャルで重版がかからなかったきわめてまれな例」であるらしい。

 さらに、The Phoenix and the MirrorThe Island Under the Earthはなんの賞も受賞できなかった。心血を注ぎこんだ傑作は、金にも名誉にもならなかったわけだ。

 残念なことに、1969年はデイヴィッドスンにとって決定的な転換点となった。それまでは一応、短編でも長編でも商業作家として成立していたのに、自分がほんとうに書きたい小説を発表したとたん、「売れない通好みのカルト作家」になってしまったのである。

 1970年、デイヴィッドスンはユダヤ教から天理教に改宗する。戦時中の兵隊時代もコシャーしか食べなかった男が宗旨変えするとは、相当の決心が必要だったと思われるが、グラニア・デイヴィスによれば、健康状態の悪化が大きく影響したらしい(序文参照)。なお、この縁でデイヴィッドスンは何度か来日を果たしており、〈SFマガジン〉1976年4月号と6月号にインタビュー記事が掲載されている。

 1970年以降に発表された長編は、マニアックな楽しみ方はできるものの、どれもどこかしら壊れた印象を受ける作品ばかりだ。普通の小説を書くことをはなから放棄している感すらある。

 ただし、デイヴィッドスン本来の得意分野である短編では、すぐれた作品をいくつもものしている。連作短編集The Enquiries of Doctor Eszterhazy(1975)と短編「ナポリ」(1978)は、どちらも世界幻想文学大賞を受賞した傑作である。

 アメリカ西海岸で転居をくりかえしたデイヴィッドスンは、1980年代初頭にワシントン州に腰を落ちつける。健康状態はさらに悪化し、退役軍人養護施設(ヴェテランズ・ホーム)に入居した時期もあるし、最晩年は車椅子生活だったという。当然、執筆活動も満足にできなくなり、金銭面ではさらに逼迫した。

 こうした苦しい晩年、デイヴィッドスンは最後の力をふりしぼり、ライフワークである魔術師ウェルギリウス連作の第2長編Vergil in Averno(1987)を完成させる。

 しかし、デイヴィッドスンの不幸は最後までつづいた。版元ダブルデイ社がSF出版から撤退する直前に刊行されたため、Vergil in Avernoはほとんど宣伝されず、商業的にも成功しなかった。これがデイヴィッドスン最後の単独長編となった。

 アヴラム・デイヴィッドスンは1993年5月8日、ワシントン州ブレマートンの老人ホームで死去した。享年70。亡骸は荼毘にふされ、太平洋に散骨された。


back to home